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聖クトベルト司教
    St. Cuthbertus Ep.         記念日 3月20日


 聖クトベルトは7世紀英国に生まれた人である。当時英国は純然たるカトリック教国で、国王御自身率先して聖会のため尽くされるという有様であったから、教勢の盛んな事言うばかりなく、聖人数多排出し、他国へ布教に赴く宣教師も夥しい数に上ったのである。

 クトベルトの生まれ故郷はイングランドの田舎町であったが、彼は早くより修道に志し651年メイルロス修院に入り。イータ修院長の指導の下に鋭意徳に励み、司祭となり副院長に選挙され、一院の修士達は勿論、付近の信徒達をも指導し、多大の尊敬を受けた。

 661年メイルロスにペストが発生し、勢い猖獗を極めるや、彼は身を挺して患者の救済につくし、為に自分も罹病したが、天主の御加護か奇跡的に全快し、その後は国内諸々を巡回して教えを説き、秘跡を授け、人々の善導に努めた。その間幾つかの奇跡も起こり、聖なる司祭との評判はいよいよ天下に高くなったのである。

 3年後彼は修院長と共にメイルロスからランディスファルンの修院に移り、そこでも均しく完徳の模範と仰がれた。 
 その間も義を求めて已まなかったクトベルトは、676年院長の承諾を得てファルン島と呼ぶ淋しい島に隠遁し、ますます祈りと苦行に身を委ねて徳を磨いた。されば修道者平信者の別なく彼を慕って教えを請い代祷を願いに来島する者日に日に多きを加えたので、クトベルトはかような事からわが心の乱されるを恐れ、庵の戸を堅く閉ざし、唯小さい窓口から人々に天主の事を語り、永福を説き、或いは教え、或いは慰め、或いは祝福を与えたのであった。

 かくて彼が隠修士の生活に入ってから9年目の事であった。カンテルベリの大司教の許に開かれた司教会議の結果、ヨーク司教区を三分し、クトベルトをそのヘクザム教区の司教に推すことに満場意見の一致を見たが、折から列席の国王エグベルトは、謙遜なクトベルトが辞退せぬかを慮かって、自ら出盧の説得を引き受けられ、ファルン島に渡って慇懃に司教就任を懇請された。クトベルトの気持ちから言えばもとより島の静かな生活を捨てたくはなかったものの、何しろ国王直々のお頼みでもあり、拒み得ずして遂に就任を受諾した。但し提議されたヘクザムの代わりに馴染み深いランディスファルンの教区を司牧させてもらうことにしたのである。

 クトベルトの司教叙階式は684年の復活祭に行われた。それから彼は二年余りもランディスファルン教区を治めていたが、ようやく最期の日も近づいて来たことを悟り、善終の準備を行うべく愛するファルン島に戻り、そこで687年3月20日この世を去った。

 彼の没後その墓畔に於いては数々の奇跡が起こり、遺徳を慕う巡礼者達の杖を引く者引きも切らず、殊に船乗り達は今なお聖クトベルトを保護の聖人と仰いでいる。

教訓

 聖人方がその謙遜から世の尊敬を避けよう避けようとされるほど、人々は益々その奥ゆかしさに引かれて後を追い或いは教訓を、或いは代願を、或いは又祝福を求めるのは、しばしば聖人伝に見受ける例であるが、実にかくの如き結果こそ謙遜の徳に対する天主の報酬である。「主は御召使いの賤しきを顧み給えり。蓋し見よ、今より萬代までも人我を幸いなる者ととなえん」(ルカ1−48)と仰せられた聖マリアの御言葉もその間の消息を語っているものといえよう。